3年ぶりの燃え尽き

3年ぶりに完全に燃え尽きて1週間の休みをとっている。この3年間の重みと学びを受け止めながら、疲労で硬くなった自分を紐解きつつ、その芯にある自己を見つめ直している。「疲れた」以上の解像度をもつのにかなりの時間が必要だった。それくらい堅く膿や澱が体積して、心の奥にたどり着くのが容易ではなかった。プロセス(処理)、そして着地。いくつかの学びを自分に刻むべく筆を取った。

 

休むのに多大な力を使った。

そして、それにより自分の疲労の大きさを知った。チームメンバーと会うことを心の底から苦痛だと感じて、友達に電話して相談した。そして休み。彼氏の保護のもとで、信頼する仲間に話に行って多少紐解くも、前に進めず沈む。それに理解を示してもらう。カウンセラーにより多くの距離を取るよう言われ、ようやく納得。シャワーを浴びて1週間休みを取ることを決めた。私はそれを自分に許すことができなくなっていた。

 

バウンダリーの限界にきていた。

自分の外にあるべき境界線がもう口元、鼻元まできて、呼吸困難になっていた。唯一自分のために残っていたのは頭の上のほう。身動きがとれなくなっていた。そんな境界線を下に押し下げ、そして自分の外に出すための心の準備が今。誰にも侵されたくない。少しずつ自分のことを思い出しつつある。

 

他人の承認から離れること。

バウンダリーを他人の手に委ね続けていた。多分人生ずっと。何かができないときは理由を伝えていた。他者に対する正当性がない限り自分が勝手に行動することは許されていなかった。けど許そうと思う。

私は多分近い将来今いる場所から離れる。その準備を着々と進めていくが、それを全て他人に言う必要はない。少しずつ準備を進めればいい。ときがきたら他人に言う。

 

友達の誘いにnoということ。

私の人生は友達との共依存でなりたっていた。友達に話して不快感を除く、その連続だった。友達には多大なる感謝をしている。申し訳なさもある。それだけ人生が困難だったのだ。それから、友達の悩みもたくさん解決してきた。

そして今この関係性に疲れたのだ。愚痴でつながってたその方法を卒業するときがきた。私の不快感は私で抱えられるようになった。辛抱強くもなったし、そこまで理不尽なことにあわなくなってきたのもある。

この交友関係が私だと思ってたからそれを卒業するのは自分への裏切りのようで少し怖い。でもそれは成長で。今は自分と仕事と彼氏、それがあれば十分なんです。

会いたい人にだけ会えばいい。そんなこと、普通に許される。

 

自分の可能性をまた開花させること。

この3年間でもかなりの可能性をひらいたと思うが、この分野は一旦おわりとなる。次にうつる準備をする。時間の使い方、働き方、立場、そしてなにより領域。一旦終わりを告げる流れがきている。カウンセラーの言ってくれた言葉がしっくりきた。そしてまわりの人からも少しずつそんなフィードバックを受けている。背中を押されている気持ち。

 

そんなところかな。

自己との向き合いは果てしない旅路だなと思う。まだ先があった。

 

助けてくれたYouTubeたち

How To Stop Being a People Pleaser - YouTube

How To Keep from Burning Out - YouTube

The Courage to be Disliked & Happy - YouTube

on healing & the power of perspective 🤍 - YouTube

 

時間があれば、これからの自分がどう生きていきたいのかも書けるといいなと思う。