最近のこと - 20211121

このシンプルな日付をタイトルにするブログを書くのがあまりにも久しぶりすぎて「2021」という最初の4文字に驚いた。日々はあっという間に過ぎていく。わたしが掃き溜めのようなブログを書かなくても自分を保てるようになったし、わたしが掃き溜めのようなブログよりももっと効果的なメンタルの保ち方を得てからいくらかたったようだ。

 

趣味を持つということについて

 

最近すごい勢いで漫画「キングダム」にはまった。カレンダーを見たら10月5日に初めてキングダムを読み始めて、3週間以内に62巻まで読み切った。半分は知人のオフィスから借りて、残りは友人がデータをくれたり、漫喫に行って読んだ。11月に入ってからはデータで持っていない分もkindleで買い揃えた。二次創作も隅から隅まで漁っていったし、封神演技の時代の周の始まりから戦国七雄始皇帝による統一までの中国の歴史をつなぎたくて2冊ほどさらっと読んだ。さらに武将の考え方を知りたくて、今は孫氏の本も2冊目に入り、漫画の中での各武将(特に知能型武将)の戦略について分析できるようになってきた。恐ろしいことに絵も描き始めた。絵は、中高のときにノートに落書きする程度しか描いたことがなかったけれど、実は絵は常々描きたいと思っていた。そして今、機がきてしまった。原作はkindleで買った巻は3周している。最近63巻が出て、耐えられなくなってヤンジャン本誌の分まで追いついてしまった。アニメもNetflixでたまに見ている。そろそろアニメイトという名前のお店に15年ぶりくらいに入店しそうでこわい。アニメイトに今何が置いてあるのかわからないけれど。

 

そしてもうひとつ。私はフィギュアスケート観戦がかなり好きだ。もともと中高の頃から好きで、当時も実はアイスショーを見にいったことがあるのだけれど、大人になってから実家に戻ってまた観戦するようになった。2019年からはアイスショーも行くようになった。コロナで世界的に大会がなかった2020/2021シーズンはなぜかロシアだけ国内大会を連発しており(そしてマスクをつけていない観客や選手もちらほら)、ロシアの女子選手についてとても詳しくなってしまった。その熱はもちろん今シーズン、2021/2022も続いており、ロシア国内大会、日本では放送されていないレベルの世界大会、毎週末世界各国で行われるグランプリシリーズをしっかり追いかけている。日本戦はなんとショートプログラムエキシビションのチケットが当たり、キングダムを浴びていた2ヶ月弱の間にしっかりとフィギュアスケート観戦もしてきた。来月は全日本選手権の女子フリーが当たったのでクリスマスの日に観に行く。これはれっきとしたオタクのクリスマスの使い方だ…(!)

 

こんな風にこの秋は堰を切ったように趣味、というかオタ活(?)に勤しんでいる。自分でもこんなにオタクになることは珍しく、フィギュアスケートはまだしもキングダムの方は驚いている。

 

もしかしたらもっと時間を制限することはできるかもしれない。けれど、ここまで気持ちよく何かにハマるのを自分に許すことができていることが、何だかすごく嬉しくて、どんどん許しているところがある。

 

改めて、趣味を持つということについて書く。

 

わたしは大学に入ってうまくいかなくなってから、常に自分の位置を修正しないといけない気持ちに駆られていた。大学院を出る頃には修正は終わっていたけど、更なる高みを目指してインプットを繰り返す必要に焦っていた。今の組織を始めたときも、とにかく前に進まないといけないという焦りが常にあり、他のものが心に入ってくる余裕はなかった。何かにハマろうと思っていないわけではなかったけど、目の前の自分の成長に比べて興味をもてるものがなかった。そして、飲み会でも何でもそうだけれど、遊びすぎることに対して脅威を感じていた。自己投資をしなくなることへの恐れを抱いていた。また、母が病気をしてからはそれについて考える時間も増えていって、単純にやることが増えていた。

それでも基本的にバランスの良いタイプの人間なので、インプットのかたわら日々の運動を欠かさなかったり、友達と連絡したりはしていたが、限度をこえるようなことはできるだけ控えていた。

それが今、自分に制限をかけずに楽しみたいことを楽しんでいる。

ずっとあった自己批判がとれてきたのかもしれないし、色々と試行錯誤してきて、自分が欲しい時間を過ごしていることが、結局は自分にとって最も幸せだということに頭も心も納得してきたのかもしれない。頑張らないといけないときはまだまだあるだろうけど、今のバランスをもう少し楽しんでいたいなと思う。

以前だったらこういう心境の変化についても分析的にブログを書いていたかもしれないけれど(そして今もやろうと思えばできるかもしれないけれど)、それを例えば3つの理由にわけてしまうのはナンセンスに感じてしまう。時間と経験の積み重ねは、積み重ねとしてのひとつの山として存在している。あるがまま受け入れるとは、こういうことなのかもしれない。

 

日本らしい文化と家族団欒が苦手なことについて

 

私は宿をとるときに旅館を取るよりかはホテルを取るほうだ。お風呂は好きだけど、温泉にはあまり興味がない。和室より洋室が好きで、和食より洋食が好きだ。ひとりでランチするときに和食のお店はほとんど選ばない。なんだか和室のもつ雰囲気が非常に居心地悪く感じるのだ。

こどものとき、家族で過ごす時間があまり好きではなかった。小4より前のことはあまり覚えていないけれど、それくらいの頃から日曜日は早く終わってほしかったし、日能研に通い出してからはそこで時間を使うほうがよほど好きだった。中高の頃はなおさら、家族で過ごすよりも友達と遊ぶほうが好きだった。家族旅行は所在なかった。小4より前の話だと、親戚と過ごす時間はとても難しかった。祖父母とも話すこともないから、弟と話していた。ありがたいことに弟と遊ぶ時間は好きだった。

最近になって振り返ると、多分「女の子」のレッテルを貼られるのがとても嫌だったのも一因にあると思う。「かわいい」という言葉をもらっても困ったし、他の女の子ほどしっかりと挨拶ができるわけでも礼儀正しいわけでもなかった。かわいい服も着なかった。賢いというのがアイデンティティでそれに縋るしかなかった。祖母は女らしさに下品なツッコミを入れる人だからそれも苦手だったし、多分いまだに、もう唯一の祖父母となるにも関わらず足が遠のいているのは結婚がどうのと言われるのが嫌だからだろう。家族のメンバーは好きだったけれど、メンバーが好きなことと一緒に過ごしたいということは別だった。

和の空間は多分、日本の伝統的な家族の集まる姿を彷彿させるのだろう。だからあまり好きではない。その空間から想起させられる人間関係にわたしの居場所はそんなになかった。そして定型文の会話を交わすこともわたしにはできなかった。わたしは多分「変わっている」タイプだったんだろうけど、頭がよかったおかげで「賢い」というレッテルで守られていただけだ。

今日はたまたま、地方駅で地元のおいしいお刺身の出るお店でひとりで晩御飯を食べた。ここにきてイタリアンというのもな、と思って行ったのだけれど、お刺身はおいしかったように感じたが、あまり味がしなかった。そこには中年のおじさんが御託を並べる声が響いていて、それがあまり心地よく感じなくて、早く食べて出てしまいたいなと思った。烏賊は今まで食べた中で一番美味しかったけれど。

よく在日外国人の友人が色々な和の空間を体験してきて写真などくれるのだけれど、それを美しいと感じることはあまりない。京都のお寺が好きなのは、わたしが家族のもとを離れてひとりになれたときに巡ったからだろう。空間は思い出との結びつきが強い。

そんなこともあって、わたしは日本を離れたい。この地が大切にする文化を、あまり大切に思えないのは寂しいものがある。この文化が好きな人はここにいればいいし、そうでない人が無理に楽しむこともない。

ちなみに、和の色使いなんかも全く興味がない。どれもこれもくすんでいて、インドや中国やメキシコのもつ色がわたしの伝統の色だったらいいのにと常々思う。

 

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そんなことをここのところぼーっと考えていた。まとまりのない文章になった。

今日はホテルに着いて色々とやろうと思っていたけれど結局絵を描いて過ごしてしまった。あれもこれも整っている生活をやろうと思っていたけれど、好きなように時間を使うことが心地よくて抗えない。本当は調べて行動にうつすべきこともあるのだろうけれど、多分、生き急ぐことはない。

絵を描けるようになりたいと思っていた、心の小さな声を拾ってあげるのもまた人生ではないでしょうか。

 

おわり。